1948年の映画「ハムレット」

ローレンス・オリヴィエ 監督・主演

1936年の映画「ロミオとジュリエット」は舞台俳優の名演を良い席で見ているような快感がある。1948年の「ハムレット」は映画的手法で優れている。上の映像、 独白シーンでは声は口は動いていない。頭の中の意識の流れとして表現。その方が舞台上の絶叫より深く静かに受けとめることができる。

母と叔父との結婚の宴席

全編 ローレンス・オリヴィエ演じるハムレットの意識の在り方、流れ、物言いは納得がゆく。心理が深く自然に刻まれている。憂鬱な気持ちと母への配慮、立場をわきまえた動きは適切であり、見ていると快感がある。このシーンのひとつ前、クローディアス:叔父・新父の

「昨日は甥 今日はわが子・・」の遠くからの呼びかけに 末席でひとり傲然たる体勢ですわっていたオリヴィエ・ハムレット わが子 を耳にしてごく軽く合図しつつ 体勢をほんの少し改める。

 

映画として見やすいのは 俳優/配役映像が映像上 見た目に自然。

映像として 40歳のロミオと30歳のジュリエット というのは 見ていてずーと気になる。日本人としては 能楽 羽衣の天女 お面の横からはみだす家元老醜の皮膚 名演といえど 気になるのをがまん だから英国劇の役者の高齢にも文句の言える立場ではないが・・

この映画 その配慮がしてある。

特に 母 ガートルード。先夫の弟から求婚されるような魅力 かつ ハムレットの母としての魅力。映像上 観客を納させることは・・・?

新王クローディアスと母ガートルード

十分魅力的 夜目遠目ではあるが・・。

母として 動き 間 (一枚上の写真・宴席シーン) 十分やさしい 母らしい身のこなしであった。

その他 やがてハムレットと決闘をするレアティーズ。ハムレットが劣勢と見える体格の良さ、オフィーリアの兄としての気品が必要。

レアティー

この映画はシェイクスピア映画の代表作とされ、日本でも好評だったようである。昭和24年1949年 19週間ロングラン。「キネマ旬報」ベストテン。

 

「私のすべての狙いと目的は、もしシェイクスピアが現在生きていたら、彼自身が作るような「ハムレット」映画をつくることであった」 オリヴィエ談

それは私がこの映画を見た感想でもある。 素晴らしい。そして原作に忠実。

 

映画ならでは 映える所作  見事な倒れ方で観衆の心をつかむ

イギリス行(王との対決/死)の決まったころ 母の寝室 母を詰問 剣をかざし 迫る カーテン裏に動揺 王! カーテンを刺す ポローニアスの死 なお母につめよるハムレット  不意に 亡父の気配に身を躍らせ 倒れこむハムレット 母を亡父の導きで許す 


 

1936年の映画「ロミオとジュリエット」

ジョン・キューカー Cukor 監督 レスリー・ハワード ノーマ・シアラー主演
主演もさることながら 脇役端役がなんとも上手い。

豪華絢爛なセット。どの場面も意匠がこらされている。

かつ言葉が簡潔的確。

A pair of star-cross'd lovers take their life;

広場でぶつかる両家の行列

カピューレット家とモンタギュー家の確執が一瞬で。わかりやすい。

殺陣の迫力十分。これだけでも見る価値十分。

モンタギューがパーリスに「今晩の会に主賓として来てください」

連続するわかりやすい場面。モンタギュー家の夜会は婚約者となってほしいパーリスをジュリエットに見せるための会。原作にあった場面かな?

ジュリエットの最初のシーン。母がパーリスとの縁談をもちかける直前。

わかりやすい。着飾った美女がたくさん出てくる映画で、あ、これがヒロイン とわかるつくり。ジュリエットの中庭にロバがいた とは原作に書いてない。

キャプレット家の招待してまわる役の男は文盲。道でロメオにリストを読んでもらう。

ロメオは知らずにリストを読み上げてやり片思いの「ロザライン」が夜会に行くことを知る。これも観客が納得しやすい話にしてある。

夜会の余興 おもしろい よくできている。

ロザラインの男人気のシーンの後 ロミオ 顔を見せるがロザラインに嫌な顔をされる。

ロザラインにふられた直後 ジュリエット登場

視線が集まるセンターにジュリエット。

一目ぼれのロミオ

豪華で意匠が尽くされ、どの場面も見続けたい気がする。しかし、きびきびと場面は進行。脇役が上手で楽しげ。監督も役者も永遠に残る映像 と意識している のかな。贅沢な作品。

「ハムレット」解釈  冬ソナ風

オフェーリア と ハムレット ユジン と ジュンサン

恋人 しかし ・・・ 父同一の異母兄弟? 迷いで後半は大揺れ。

韓国ドラマ キム・ウニ   ユン・ウンギョン共著「冬のソナタ」。

 

オフィーリアの実父は 故、父ハムレット王。

叙述にもあるように 父ハムレット王は美男。オフィーリアは美女。

ハムレットは亡霊として父の顔を間近に見ており、オフィーリアの顔も熟視。

オフィーリア(父ポローニアスへの報告)「(ハムレットは)私の手首をしっかりとおつかみになり、もう一方の手をひたいの上にかざし、まるで絵でもお描きになるかのように私の顔を見つめていらっしゃったのです。そして腕をふり、それは悲しそうに深いため息をおつきになりました」。オフィーリアの顔と亡父の顔はうり二つ。ハムレットとオフィーリアを引き離そうという動きは大きく描かれている。オフィーリアの父も兄も渾身の引き離しに奔走。ハムレットも別れの言葉「尼寺へ行け」などと突き放しにかかっている。兄弟結婚阻止。

ハムレットも深く迷っていて 近寄ってきたポローニアスに「言葉 言葉 言葉」と言う。大学出のポローニアスとハムレットが英語で話すワケはなく、ここはギリシア語的意味で。そうすると、「ロゴス ロゴス ロゴス」「情報 論理 証明」と言ったのである。どんな情報で何を証明?

ハムレット「お前の職業は魚屋(女郎屋の亭主 福田訳 正解)模範的」
ポローニアス「え、模範的ですって?」

ハムレット「太陽(男)が死んだ犬(女)に種つけして蛆を生ますのも、それが気持ちのいい行為ならばこそ」けがれた作業(妻を王に差し出す)に手を出さず自分の子(オフィーリア)を作ったのっだから」ハムレットは論理的に考えて、オフィーリアは蛆虫であり妹であるとの証明に至ったのである。

狂気のハムレットの言動 狂気ではないのだから このように読み解けるそうです。田中重弘説。

冬ソナでジュンサンの母 カン・ミヒは沈黙を守りつつ 平然。ジュンサンとユジンは兄弟ではない。同じく母ガートルードも平然。二人は兄弟ではない。わが子ハムレットの実父は父ハムレット王ではないのだから。だからクローディアスと再婚。

 

 

シェイクスピア劇 / キリスト教

キリス教とシェイクスピア劇 これを主題とした著書を何冊か持っている。私は大学院の修士課程の恩師がシェイクスピア学者であり、博士課程の恩師は聖書学であるから、シェイクスピア研究会に属した時期もあり、キリスト教文学会にも属していた。学友は「シェイクスピアキリスト教」というタイトルの本をプレゼントしてくれて、同じ本が2冊ありプレゼントとして保存している。研究には役立たなかった。中途半端な抽象度で両者が論じられており実り少ない。

シェイクスピア劇に影響しているのは 聖書からする最高の理念ではなく 当時のキリスト教の戒律・常識 と思われる。例えば、チェスをやっていて 圧倒的に優勢 敵は王様ひとコマで盤上を逃げ回るだけ よくあることではあるが 引き分け にもちこまれてしまう。自殺しかない状況を作ってしまうと勝ちにはならない。オフィーリアの死も自殺ではない という扱いが大問題。自殺なら天国には行けない。「ハムレット」冒頭の父ハムレット王の亡霊。ホレーシオをさけている。ホレーシオは神父格の人。60歳くらいか、城壁の若い兵士から椅子をすすめられる。亡霊はハムレットとだけの会話を望む。ホレーシオの前で言えないことがある。嘘混じり。帰ってきての顔色の質問。「青ざめた土色か 赤か」青ざめていれば地獄から来た亡霊、赤ければ炎で罪が清められる煉獄から。青かった。地獄から。大罪の人。戦争で人を殺すぐらいは大罪ではない、というのが当時の常識戒律。ポローニアスを殺すと、父ハムレット王の亡霊がガートルードの寝室に現れる。ポローニアスの地獄直行が判明、即刻父ハムレット王に報告したことが 当時の聴衆にはわかったはず、キリスト教常識戒律。ポローニアスも大罪の人とわかる。カーテンの陰の盗み聞きではない罪があると考えざるをえない。

シェイクスピア劇の聴衆

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THE OXFORD COMPANION TO SHAKESPEARE

シェイクスピア劇の聴衆はどんな人たちだったのだろうか。

A.Harbage Shakespeare's Audience 1941 読んでみたい! 内容を想像。自由平等を好む気運の人々が土間の立見席にあふれていた、かな。貴族・地主 / 農奴ではなく、独立自営農民層とその解体過程の都市流入層。地代金納化後の時代 幾世代にわたって蓄財 農地の権利取得 封建的隷従から解放され(つまりは保護もされなくなり)やがては資本家か労働者に分解していく階層。疫病と百年戦争 兵士不足のイングランドで地位向上。ハムレットと夜警の若い兵士たちはフレンドリー。民衆は「レアティーズを王に」と騒いだりする政治好き。「ハムレット」初演の半世紀後にはイギリス革命が始まる。

ここで言いたいのは 日本語訳は封建的上下関係過剰の卑屈な言葉一色。シェイクスピア劇の言葉を中世英語と誤解する人多し。民衆/市民が尊重されない言葉をシェイクスピア劇の聴衆は喜ばなかったはず。松岡和子氏もシェイクスピア作品全訳、最後の作品「終り良ければばすべてよし」傲慢な青年伯爵への女性からの求婚の言葉を従来訳から変えたいと推敲をかさねた とのこと。

エリザベス朝の舞台

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荒井良雄シェイクスピア劇上演論」p49

優れているのは:

A 部分 ハット 吊り下げ装置 妖精が媚薬を目に塗る とか細かく動ける。

B オーケストラボックスが高い位置に。ファンファーレとか盛り上がりそう。

C 小道具へのこだわり部屋 ハンカチに 指輪 細身の剣。

D 貴賓席 女王のお姿が視界に。

E 窓舞台 「オセロ」のファーストシーン!

F 上舞台 ハムレット冒頭「マーセラス・・・」ジュリエットのバルコニー告白 

G 楽屋 舞台との一体感あり。

H 内舞台 寝室:ガートルードの寝室でカーテンの陰に隠れているのは?のワクワク。

 

ハムレット」だけでも 父王の亡霊が外舞台の下を動く描写。活字では間がぬけてしまう。臨場感あるオモシロイ演出。オフィーリアの墓穴での乱闘も映画の実景は集中できない。内舞台にぴったり。名セリフも聞きやすい。

 

N 平土間が気になります。位置的には現代日本の劇場なら特等席。最良席、相撲の砂かぶり土俵際見物席が大衆に開放されている。1ペニー 。立見 。周りの3階層 椅子席は6ペンス。17世紀の貨幣価値はわかりませんが、500円にした時のプロ野球外野席の熱狂 いや3千円だったジュリアナ(ディスコクラブ)騒然 の価格帯と推定。天井桟敷の聴衆は 大向う 目が肥えていて 熱いマナザシの中での演技。 野球の二軍戦の観衆のようにうるさい はず。

「生きるべきか 死すべきか」 ナリコマヤ とか叫びそう。

あの台詞自体 or not to be の後 一瞬のシアトリカル・ポーズ あり。間 があって 観客の感情移入。ジュリアナ東京のあの曲 Can't Undo  ♪♪・・・・・(さわり)そして 間。 土間の人々が ウオッ とみんなで手をのばす半呼吸の間。そのような N の平土間は装置であった と断言したい。 

シェイクスピア劇の律文と散文

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松園 下絵

シェイクスピア劇は無韻5音歩行の律文の劇。しかしハムレットが墓堀と話す時は散文。不羈奔放の律文ともとれる。これを第一類散文とすると 旅役者、学友との対話はこれで、それ以外に第二類の散文あり。狂気を装うハムレット、狂気のオフィーリアの言葉。しどろもどろ。「ハムレット」3-5-140-4。正確に繰り返せず、脈が揺らいでいるような言葉。「ハムレット」では3種類のリズムを楽しむことができます。オフィーリア死の直前の花の名前をあげて歌うように話す狂気のセリフ、ロンドンのテート美術館のジョン・ミレー画「オフィーリア」水面顔の横に花束 同一種類か検討中。絵の花は綺麗すぎか。